機能不全家族育ちという名のマイノリティ
ステイホーム。
元々インドア派なせいか、すっかり引きこもり生活も板についてきた今日この頃(笑)
毎朝の「起き抜け読書」が習慣になりつつあります。
この本、実は雑誌(季刊誌)なんですけど、20年くらい前にドハマリして、いまだに全巻(といっても5冊だけど。笑)大切に保管しています。
表紙はなかなかにぎやかですが(笑)中身はかなり真剣。マジョリティになれない、受け入れられないマイノリティたちの葛藤や主義主張が、対談形式や論文調で綴られています。
今読み返すと、この20年で世界は本当に様変わりしたなぁって痛感します。もちろん、私自身も。
もともとこの雑誌にドハマリしたのは、私も「自分がマイノリティである」という悩みを抱えていたから。
当時の私は、いわゆる機能不全家族育ちゆえの生き辛さを激しく感じていました。家族と書いて、地獄と読む。とかフツーに主張していた時代。親に愛されて育ったヤツは、みんな死んでしまえばいい、なんてことを、自分自身の心の痛みをごまかす麻薬呪文として目をつり上げて唱えていた時代です(や、変な儀式はしてないわよ。笑)
今でこそ、そんな過去もひっくるめて自分自身を受け入れることができていますが、当時は、友人に「父親を憎んでいる」などと告げようものなら「そんなこと言うなんて信じられない!」って全否定されたものです。で、黙って引きこもるしかなくなる。誰にも自分の気持ちを伝えることができない。心を開けない。
「アンタって、自分の本心言えへんやん。なんで?」
って言われたこともあるけど、言うたら全否定しましたやんか(涙)と反論することすら無意味に感じられ、もう人間なんて大嫌い! という負のループに真っ逆さま。
グレイヘアというマイノリティ
おっと、なんかすげー暗くなってきたけど(汗)
今、こうして、更新頻度は低いけど(スンマセン)グレイヘアブログを綴っているのは、どこかで自分がマイノリティである、しかしそれがどうした? と主張しているのに他ならない気がしてきました。
すでにこのブログで何度も書いていますが、私はアレルギーもないから白髪を染めることもできるし、職場は髪色をとやかく言わないので、染めなくても平気。つまり、完全なる自由意志で、私は白髪染めをやめてグレイヘアに至りました。
それは、あまりにも自然なことで、自分自身をマイノリティだと思ったことはありませんでした。思ったことはないつもりでした。
でも、20年前の、ドツボな私に寄り添ってくれたこの雑誌をあらためて読み返してみると、また違う視点が見えてきて面白いのです。
ひょっとすると私は、グレイヘアというマイノリティの立場に自分自身を置くことで、自己のアイデンティティを際立たせようとしたのではないか、と。そう考えると、グレイヘア批判の意見なんかを目にすると、むしろ血湧き肉踊ったという不思議な思考回路にも納得できるのです。
グレイヘア批判を突き抜けたグレイヘアはどこへ行くのか
昔、別ブログ(今は閉鎖しています)で親からの虐待記録ブログを公開し、同じ傷を抱える仲間たちと「殴られメイツ」というコミュニティを作って盛り上がっていました。
しばらくは楽しかったのですが、そのうち「なんか生産性ないなー」と感じて、いつのまにかフェイドアウトしてしまいました。
今、こうしてグレイヘアブログを綴っている私。グレイヘア批判を蹴散らして、それで終わりというのなら、これまた生産性ゼロだな、と思うのです。
私はこれから、ここで何を伝えていくのだろう。
ちょっとしんみり考えてしまいました。